感覚派と論理派という区別は間違っている
最近、感覚派か論理派かみたいな話をすることがあった。
自分はもともと感覚がメインで生きていた人間で、最近はどちらも大事だと思い、どちらも伸ばしたいと思っているのだが、
その話をしている時に、違和感を感じたり勘違いを生みそうだなと思ったことがいくつかあった。
感覚派だからといって論理を使わないわけではない
実は感覚派だから、感覚だけに頼っているというわけではないはず。
自分の思う本物の感覚派は、時と場合によって感覚と論理をしっかりと使い分けられる人だと思っている。
「私は感覚はなので」という理由で思考停止する人は、ただ単に自分を甘やかしているだけなんじゃないか?と思ってしまう。
論理は記憶の補助になる
前に決めたことをしばらく時間が経ってみると、なぜその決定をしたのかがわからなかったり、
そもそも自分が決めたということさえ忘れていることがある。
そういう時は大体、「なんとなく」のようなあいまいな感覚だけで決めてしまっていることが多い気がする。
一方で、「絶対にこれ」とその時は言ったものの、しばらくしたらそうでもないというパターンもある。そういう時は大体、「なぜ」をしっかりと考えると意外と、明確な理由がなかったり、説明できなかったりする。
逆に、一つ一つ決定するときに理由を考えたりすることによって、記憶には定着しやすくなるはず。
感覚も論理によって研ぎ澄まされる
自分が思うに、感覚は自分の経験やバックグラウンドから生まれることが多い。
エジソンの言葉にもあるように、Inspirationは意外と割合としては少なくて、
努力というか経験や自分自身のバックグラウンドから生まれることが多い気がする。ここでも大事になるのが、上に書いた「記憶」という部分だと思っている。
その記憶が取り出しやすい状態になっていて、かつ複数のことをスピーディーに結びつけることができると、感覚的に素早く考えることができるのでは?と思う。
そのためには、記憶として頭にインプットする際に、しっかり考えているかというのがキーになるような気がする。
どちらも大事
という感じで、結局はどちらも大事なので、ある人から見ると「あの人は感覚派だ」と見えるかもしれないし、逆に見られることがあるかもしれない。
とにかく両方を自由自在に上手く使いこなしたいですね〜。